会長挨拶

会長 杉山和昭

ようやく待ちに待った滋賀大サッカー部OB会員向けホームページ(以降H.P)が開設されました。このH.Pの場で会員相互の情報交換や現役活動状況の共有を行うことによって、益々滋賀大サッカー部OB会が活性化されることを期待いたします。
でもまだ開設されただけ、スタートラインに立っただけです。このあとどういった情報を掲載し、広く発信していくことで盛り上げていくのかが大切で、その為にも、言うまでもないですが、OBや現役の皆さんの協力なくして成功は成し得ません。どうぞ皆さんこのH.Pの盛り上げに積極的な参画をお願いします。
折角ですからこの場を借りて具体的にお願いしたいことを挙げさせていただきます。
まずは当Pの保守・管理を担当してくれる人を募らなければなりません。開設までは事務局長の嶋仲くんがやってくれましたが、このあと保守までやるのは色々な意味で限界があります。どなかた我こそはと思う方挙手願います。もちろん一人に任せるのではなく、複数人で分担していくやり方がよいと思っています。
今回初回ということで昭和47年度卒業の森口大先輩に投稿してもらいましたが、皆さんの近況を積極的に投稿願います。重苦しく考える必要はなく、気軽に。文章を書くのが苦手なら写真多めのコメントは一言二言でもよいと思います。内容も同期メンバーで飲み会をやったとか、フットサルに参加したとかでよいと思います。
具体的な投稿方法については別途このH.Pに掲載してもらうことにします。
これは現役の方へのお願いになりますが、現役メンバーの近況も積極的に発信願いたいです。試合結果はもちろんですが、それ以外にも合宿やったとか、遠征試合やったとか、新人が入ったとか、合コンやったとか…何でもよいです。内容よりも回数重視で構わないと思います。また重荷にならないようにこちらも文章少な目、写真多めで構いません。
これは現役メンバーの中から担当を選出してもらってお願いすることになると思いますのでよろしくお願いします。
最後にこれはお願いという訳ではないですが、このHPに皆さんの名簿を登載することをお許し願いたいと思います。もちろん一般公開されないように会員限定のパスワードを設定しての掲載にします。狙いは単純に皆さんの最新の所在を明らかにするためです。住所が古くなって連絡を取ろうと思っても不達になってしまうケースが多々あります。自分の所在がどこでOB会登録されているのを自分の目で確認してもらって、誤っていたら事務局に連絡いただく流れを作りたいのです。よろしくご理解願います。(どうしても住所等の掲載を承諾いただけない場合は、その旨事務局にご連絡いただければ削除いたします。)
以上、長々と書き込んでしまいましたが、私も色々思うところをこれからも投稿していこうと思いますし、会員相互で意見交換とかもできたらなと思いますので末永くよろしくお願いいたします。

令和7年定期総会アルバム~初の彦根キャンパスでの開催

二日目のOB戦も大いに盛り上がりました。

今年行けなった方も来年は彦根で会いましょう!

OBだより

昭和48年(1973)卒業の森口修逸さんからの投稿です。「私とサッカーの出会い 」

昭和48年(1973)卒業の森口修逸さんからの投稿です。
大学4回生時代、卒業旅行でヨーロッパに旅立ったが、オリンピックの年だったことに気づいたのはザルツブルグの市庁舎前の聖火リレーの会場だった。急遽旅の日程を見直し、夜行列車を乗り継いでアウグスブルクからミュンヘンに着いた。たまたまアメリカ対ドイツの試合を見つけて入場券を確保し立見席で観戦。地元の「ドイッチェランド!ドイッチェランド!」の声援がすさまじく、当時の日本リーグのお通夜のような応援風景とは全く違った。予想通りドイツが勝利し、その試合で隣り合わせたポーランド人とも仲良くなった。
卒業後日立製作所に入社、6月頃4週間の工場見学で亀有(東京)、大甕(おおみか:茨城)、国分、日立の各工場を回り、うち3週間は大甕工場にある大卒向けの独身寮に宿泊した。たまたま寮対抗のサッカー大会があり、頼み込んで準決勝と翌週の決勝戦に参加させてもらった。新入社員ながら「客人」であったため、センターフォワードとして出場したが、決勝では若い高卒向け寮を相手で圧倒的に攻められ続けた。しかし、センターサークルあたりのギリギリオフサイド手前で待ち構えていたところへ、たまたま味方のクリアボールが飛んできて、そのままトラップしてGK一人のゴールに向かってドリブルし、見事にゴール!そのままバックス陣が守り続けて優勝した。
所属先の日立製作所名古屋営業所では、入社3年目に中部支店サッカー部を創立し、5年目に主将に。4事業所対抗の大会では少しづつ強くなり、10年で2度優勝できた。滋賀大学サッカー部同期の川本明人君は、名古屋大学大学院へ進学し、河合塾の講師をしながら、名古屋大学経済学部の修士・博士課程を卒業して、広島の修道大学に就職し、学長(広島修道大学 (名誉教授)となられた。川本君には、メンバー不足の日立サッカー部で名古屋リーグ(当時は3部)に暇なときには参加いただいた。また、社内の工場を含んだ4事業所対抗試合の時には、主審もお願いした。川本明人君は、そののち、広島修道大学の学長になられた。
その頃、日立製作所内では、事務管理課の女性社員が突然、仕事の席に現れ、マネージャーにしてほしいと懇願された。まじめな(?:女性の取扱いに慣れない)私は、「女性のマネージャーは、社会人リーグの打ち合わせなど業務を抜け出して行ってもらう訳にはいかないし、(申し訳ないが)いらない」と断った。母校の同志社高校時代も滋賀大時代もサッカー部に女子マネージャーはいなかったのである。しかし、部員全体から反対意見が出て、とうとうまとまりがつかなくなり、やむなくこちらからマネージャーをお願いするはめに・・。それ以降サッカー部員は着実に増えていった。
その後、転職で横浜のあざみ野に転居して、息子の小学校のチームの監督や娘の女子サッカーチームのコーチなども経験し、土曜日曜は、仕事よりもサッカー中心の生活が続いた。娘のチームの方は結構、歴史があり、横浜市大会では優勝もした。息子のチームでは宮本輝紀さん(かつて新日鉄八幡のMFとして活躍、メキシコ五輪の日本代表)が我が息子の練習に立ち寄ってサッカーの指導を受けたり、宴席ではメキシコ大会の銅メダルを息子の首にかけていただいた。オリンピック・ワールドカップでは唯一の本物のメダルをかけてもらった子供は、そういないであろう。
社会人になってからは、滋賀大学サッカー部OB達を集めて、年に数回、サッカーの試合を東京近辺で行なった。特に、NECの2期下の大山君が熱心に仲間を募ってくれて、三和銀行に就職した同期の細河君が、田無の三和銀行グランドを提供してくれて、自身の子供たちも参加させたサッカー試合を行った。
振り返ると滋賀大時代のみならず、高校から社会人まで、我が子供たちも含めてずっとサッカーと関わってこられたのは大変幸せなことであった。OBの皆さんもそれぞれの立場でサッカーとつながってもらいたいと思う。(終わり)

東京支部での活動 について

第51代卒業生の河合と申します。
彦蹴会の皆様には、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。先般の会報を拝見し、杉山新会長のご就任を心よりお祝い申し上げるとともに、榎谷前会長のご尽力に深く感謝申し上げます。「日本一の成長」を掲げる現役部員がAIカメラの導入など新たな挑戦を進める姿に、関東からも大いに刺激を受けております。還暦を過ぎてもなおボールを追われる杉山会長に負けじと、私どもも、体育会サッカー部で培ったネットワークをソサイチの実践と彦蹴会の基盤づくりに活かしていく所存です。そんな想いを以って、ささやかな取り組みではありますが、関東在住の会員有志の活動について以下のとおりご報告申し上げます。
関東(主に都内)在住の卒業生有志で、1〜2カ月に一度、7人制ソサイチの大会に参加しております。運営は51代卒の私が担い、参加者は上は47代から下は55代まで幅広く、年の近い代を中心に声掛けをしつつも、現役時代には交わる機会のなかった先輩、後輩と同じボールを追えることが、この会の醍醐味です。試合間のベンチでのひとときや待ち時間、さらには大会後の宴席に至るまで、ピッチの外でも交流が広がり、近況や仕事、家庭、さらには社会での立ち位置に至るまでを自然体で語り合える貴重な交流の場となっております。
“ソサイチ”は、ポルトガル語で「小さな社会」を意味する“Society”を語源としております。同じバックグラウンドを持つ仲間が世代の垣根を越えて集い、ピッチという小さな社会でポジショニングを磨くことで、外の社会でのポジショニングも自然と整う、まさに「ソサイチで社会を学ぶ」、そんな洒落も交えつつ、今後も継続してまいります。
世代は問いませんので、ご参加に興味のある方は、ぜひ河合までご連絡ください。近年は人数不足の折でもあり、お力添えいただければ幸いです。

第28期(1980年卒)同期会旅行

我々1980年卒業の同期は例年時期を見て旅行に行っています。今まで、沖縄、敦賀、勝浦、福井と同期の故郷(現住所)を訪れました。写真は今年の福井旅行で、一泊二日で東尋坊や永平寺を楽しく回りました。

11/9 vs兵庫県立大 (姫路) 

雨の中、試合は5-0で激勝! 現役の皆さんお疲れさまでした。

この試合で学連チームはプレーオフ出場を決めました。

おめでとうございます!

大阪支部OB、現役の応援に駆け付ける。

雨の中、試合は5-0で激勝! 現役の皆さんお疲れさまでした。

11/9 vs兵庫県立大 (姫路)