昭和48年(1973)卒業の森口修逸さんからの投稿です。「私とサッカーとの付き合い」

大学4回生時代、卒業旅行でヨーロッパに旅立ったが、オリンピックの年だったことに気づいたのはザルツブルグの市庁舎前の聖火リレーの会場だった。
急遽旅の日程を見直し、夜行列車を乗り継いでアウグスブルクからミュンヘンに着いた。たまたまアメリカ対ドイツの試合を見つけて入場券を確保し立見席で観戦。
地元の「ドイッチェランド!ドイッチェランド!」の声援がすさまじく、当時の日本リーグのお通夜のような応援風景とは全く違った。
予想通りドイツが勝利し、その試合で隣り合わせたポーランド人とも仲良くなった。
卒業後日立製作所に入社、6月頃4週間の工場見学で亀有(東京)、大甕(おおみか:茨城)、国分、日立の各工場を回り、うち3週間は大甕工場にある大卒向けの独身寮に宿泊した。
たまたま寮対抗のサッカー大会があり、頼み込んで準決勝と翌週の決勝戦に参加させてもらった。
新入社員ながら「客人」であったため、センターフォワードとして出場したが、決勝では若い高卒向け寮を相手で圧倒的に攻められ続けた。
しかし、センターサークルあたりのギリギリオフサイド手前で待ち構えていたところへ、たまたま味方のクリアボールが飛んできて、そのままトラップしてGK一人のゴールに向かってドリブルし、見事にゴール!そのままバックス陣が守り続けて優勝した。
所属先の日立製作所名古屋営業所では、入社3年目に中部支店サッカー部を創立し、5年目に主将に。4事業所対抗の大会では少しづつ強くなり、10年で2度優勝できた。
滋賀大学サッカー部同期の川本明人君は、名古屋大学大学院へ進学し、河合塾の講師をしながら、名古屋大学経済学部の修士・博士課程を卒業して、広島の修道大学に就職し、のちに学長(広島修道大学 名誉教授)となられた。
川本君には、メンバー不足の日立サッカー部で名古屋リーグ(当時は3部)に暇なときには参加いただいた。また、社内の工場を含んだ4事業所対抗試合の時には、主審もお願いした。
その頃、日立製作所内では、事務管理課の女性社員が突然、仕事の席に現れ、マネージャーにしてほしいと懇願された。
まじめな(?:女性の取扱いに慣れない)私は、「女性のマネージャーは、社会人リーグの打ち合わせなど業務を抜け出して行ってもらう訳にはいかないし、(申し訳ないが)いらない」と断った。
母校の同志社高校時代も滋賀大時代もサッカー部に女子マネージャーはいなかったのである。しかし、部員全体から反対意見が出て、とうとうまとまりがつかなくなり、やむなくこちらからマネージャーをお願いするはめに・・。それ以降サッカー部員は着実に増えていった。
その後、転職で横浜のあざみ野に転居して、息子の小学校のチームの監督や娘の女子サッカーチームのコーチなども経験し、土曜日曜は、仕事よりもサッカー中心の生活が続いた。
娘のチームの方は結構歴史があり、横浜市大会では優勝もした。
息子のチームでは宮本輝紀さん(かつて新日鉄八幡のMFとして活躍、メキシコ五輪の日本代表)が我が息子の練習に立ち寄ってサッカーの指導を受けたり、宴席ではメキシコ大会の銅メダルを息子の首にかけていただいた。
オリンピック・ワールドカップでは唯一の本物のメダルをかけてもらった子供は、そういないであろう。
社会人になってからは、滋賀大学サッカー部OB達を集めて、年に数回、サッカーの試合を東京近辺で行なった。特に、NECの2期下の大山君が熱心に仲間を募ってくれたり、三和銀行に就職した同期の細河君が田無の三和銀行グランドを提供してくれて、自身の子供たちも参加させたサッカー試合を行った。
振り返ると滋賀大時代のみならず、高校から社会人まで、我が子供たちも含めてずっとサッカーと関わってこられたのは大変幸せなことであった。OBの皆さんもそれぞれの立場でサッカーとつながってもらいたいと思う。(終わり)
先輩、貴重な投稿記事をどうもありがとうございました。(事務局)